ずるいひと -15 セーラー服-
「そもそも、向いてなかったんだ。教職なんて」
独りごつ凛に気遣うでもなく、茅野はくるりと鼻歌交じりに通販雑誌のページをひらりと捲る。
どのページにも、色とりどりの夏物の服や水着が並ぶ。
小麦の肌に映えるだろう、生成りのブラウスのページで手を止めて、茅野は誰に問うでもなく呟いた。
「まだ梅雨だって来てないのに、もう夏物特集。なんだか不思議な気がするねえ」
生徒は居ない、授業中の保健室。
消毒液に紛れて、ほんの僅かに桃の香りが香る。
カクテルのようにも嗅ぎ取れるその匂いは、茅野愛用のオードトワレ、ユージンのものだろう。
しんと静まった部屋の中に、彼女の高く澄んだ歌声が響く。
あなたにさようならって言えるのは今日だけ……
風、というグループの22才の別れという曲だった。
家で散々聞かされたからフォークソングは嫌いと言いながらも、彼女が口ずさんでいるのを凛は何度も聞いている。
既にここの常連となっている凛は、そんな茅野を不快に思うでもなく何度目とも知れない溜め息を深く深く吐き出した。
胃薬の壜を片手に握り締め、もう片方の手で胃を押さえる。
数分前に薬を飲んだものの、まだ効く気配はほとんどない。
あるいは、……もう、薬に躰が慣れてしまったのかもしれない。
何しろ、今年の春に教員となって以来、彼がここを訪れるのはほぼ日課になっていたから。
「……そうだ。向いてなかったんだよ」
自分に言い聞かせるように言う凛を横目でちらりと覗き見して。
彼がすっかりと老成――というより、疲れ果ててしまっていることを確認した。
扱けた頬に目の下に、しっかりと色素沈着してしまったくま。ぶつぶつと呟きながら胃をさする姿は、誰の目にもとても大学を出たばかりの青年には見えないだろう。
ほんの1ヶ月前には、胃痛とは無縁の生活を送っていたのに。
原因は知っている。
凛の口から何度となく出た、織畑という名前の生徒にあるのだと。
知っていたけれど、茅野は敢えて自分からは尋ねようとはしなかった。
「今年は海に行きたいなぁ。あっつい砂浜で飲む冷えた缶ビールはきっと最高だよ」
知らないふりをすること。
助けを求められた時にだけ手を差し伸べること。
そうでないと、この気難しい幼なじみは拗ねてしまうから。
幾つになっても、茅野にとって凛は可愛い年下の弟分だったから。
勿論、そんなことを言おうものなら、すぐに仏頂面でこの部屋を出て行ってしまうだろうけれど。
それにしても。
(放っておいたって、絶対に私の助けなんて求めないだろうけどねえ?)
彼の疲れようは放置しておくにはあまりに惨めだった。
茅野は顔を上げ、初めて気付いたように凛の顔を見た。
「そういえばさあ」
凛は顔を上げ、茅野を見た。
瞳に生気の色はない。
「紙にさ、A紙とB紙とC紙があるの、知ってる?」
★
「日下は知ってる? 紙にはね、A紙とB紙とC紙っていう紙があるんだよ」
突然言いだした担任の声に、茅野はびくりと肩を振るわせた。
カナカナと鳴くヒグラシの声と、斜めにさす紅の日差し。
少し肌寒くなった風に、窓の外では緑の中に少しだけ紛れだした黄や橙に色づいた葉が見え隠れする。
もう、夕方になってしまったんだ。
ぼんやりと思いながら、茅野は控えめにずずっと洟をすすった。
頬に張り付いた涙の後も、既に乾ききっている。
「知りません」
言ってから、まだ涙声であることに気付き、茅野は俯いた。
なんてことをしてしまったんだろう。
自己嫌悪が後から後から襲ってくる。
皆が文化祭の準備をしている教室から逃げ出してしまったことを。
けれど、彼女を追ってきたのは担任の桝村だけだった。
理由も言わずただ泣きじゃくる茅野に、彼は何があったのかとは決して聞かなかった。
ただただ、音楽室のドアの前に座り込んで泣き続ける彼女の隣に、少しだけ距離を置いて腰を下ろして。
そのままただただ、彼女の傍に居るだけだった。
教室に戻ろうとも、帰ろうとも言い出さない。
けれど。
(駄目な奴だって思われたんだろうな)
茅野はもう一度だけ洟をすすると、きっと唇を引き結び、顔を上げた。
「ノートなんかのサイズだったら、AとBがありますよね。A4とか、B5とか」
今度は、さっきまで泣いていたことは気付かせない、強い響きがそこにあった。
茅野は自分が出した声に少しだけホッとする。
担任とはいえ。まだ、桝村をどこまで信じたらよいのかわかりかねている限り、心を許すわけにはいかなかったから。
弱いところはこれ以上見せたくない。それだけで気持ちをどうにか落ち着けようとした。
「そうだね。だけどね、それとはちょっと、違うんだ」
一体桝村は何が言いたいんだろう。説教でもしたいんだろうか。
訝しげに眉を潜める茅野に気を留める事もなく、桝村は坦々とした調子で言葉を紡いだ。
「複写伝票って分かるかな。郵便局の振込み用紙なんかに使われてる、一番上の紙にボールペンで強く書くと、下の紙に写る」
「あ、はい。分かります」
「それのね、裏が黒くないやつ――黒いのはカーボンっていうんだけどね――、それが塗ってなくても文字や絵が複写できる紙。それがね、A紙とB紙とC紙の3種類の紙で出来てるの。それを感圧紙って言うんだ」
「はあ」
ただただ呆気に取られ、茅野は左隣に座る桝村を見た。
桝村は茅野と視線が合うと穏やかな笑みを浮かべ、それまで着ていたスーツの上着を茅野の躰にふわりとかけた。
「あ、いいです。別に」
「いいんだよ。ちょっと、寒いでしょ。もう、秋がすぐそこまで来てるみたいだから」
首をぐいと持ち上げ、桝村は階段の踊り場にある窓の外を眺めた。
すぐに視線を茅野に戻し、ゆっくりと口を開く。
「それでね、一番上の紙がA紙、一番下の紙がC紙」
意図の掴めない話がまた始まる。返しそびれたスーツを羽織ると、桝村の体温がまだ残っていて暖かかった。
「それ以外の真ん中にある紙を全部、B紙って言うんだ」
「あの……」
「何?」
「何の話、してるんですか?」
「言っただろう? 感圧紙の話」
この担任は、日本語が通じないんだろうか。
少し苛々して、茅野は声を荒げる。
「そうじゃなくって。どうしてそんな話をするんですか?」
「日下はね。多分、C紙だと思い込んでると思うんだ。自分をね」
本当に話が通じていないらしい。
茅野は諦め、彼の話を聞くことにした。
桝村は穏やかな声で、
A紙は裏面にだけ発色剤が塗ってあってね。B紙やC紙に文字や絵の情報を写すことができるんだ。
C紙は表面にだけ顕色剤――発色剤と合わさって初めて色を出すことができるマイクロカプセルが塗ってあってね。A紙やB紙に書かれた文字を読み取ることが出来るの。
B紙は優秀でね。A紙からの文字を読み取ることもできれば、C紙に伝えることも出来る。ようするに表に顕色剤が、裏面に発色剤が塗ってあるんだ。
そこまで言って、桝村は一度言葉を止める。
「ややこしい話だけど、言ってること……分かったかな」
「ええと、なんとなくですけど。ようするに、A紙は伝えることしかできなくて、C紙は受け取ることしか出来ない。だけど、B紙は伝えることも受け取ることもどちらもできるってこと、ですよね」
不安げに尋ねると、「そういうこと」桝村は柔らかく笑んだ。
「日下は、今のクラス、どう思う?」
突然、話が変わったことに――そしてそれが茅野が聞かれたくなかった話に移ったことを察し、彼女は体を固く硬直させた。
「えと……いいと思います。積極的な人が、ちゃんと皆を導いていけてて」
「本当に、そう思う?」
まっすぐに、桝村は茅野を見る。微笑んでいるにも関わらず、射るような鋭い眼差しに、茅野は自らの体を守るように抱きかかえた。
「……」
「ごめんね。別に、責めたかったわけじゃないんだ。ただ、……日下はいつも泣いてるなあと思って」
思わず目を見開いた。
桝村に泣き顔を見られたのは、今日が初めてだと思っていたのに。
「そんなこと」
「ないって、言える?」
言われて、茅野は俯いた。
何かないか。言葉を捜す。
けれど、何も出てこない。都合のいい、彼を交わすことのできる言い訳は。
「……言えません」
ぎりりと歯を食いしばる。
なんだか、負けたような気分が胸に広がる。
「確かに。今の2−2はリーダー核の人が居て、他は彼らの言うことを聞いて。そういう構図が出来てるよね。それが、悪いこととは言わない。ちゃんと皆を纏める人がいるのは、大切なことだから。だけど、……それだけじゃいけない。どうしてか分かる?」
「不満が、言えなくなる。もしも、気に入らないところや、こうした方がいいって意見があっても、我慢して胸に溜め込むようになって……」
はっとして、茅野は桝村を見た。
桝村は大きく頷く。
「A紙だけじゃ何もできない。C紙だけだって同じ。本当は、みんなB紙なんですね。……そういう、ことなんですね」
与えられるだけじゃない。与えるだけじゃない。与えて与えられて、だから成長していける。
茅野は今まで、ただただ諦めることしかしてこなかった。
仕方ない。思い込んで、言われたことをすることだけで。
「おい、お前ら早くやれよな」
「オレらが折角案出したのに、間に合わなかったらどうすんだよ」
発案するだけして、自分は何もしようともしないリーダー核に腹を立て。
それでも何も言い返すことも出来ない自分が悔しくて。
溜まらずに、静かに教室を飛び出した。
何もする前から、ムダだと全部諦めて。
「ちょっと、説教臭かったかな」
ぽりぽりと頭を掻く桝村を見て。
茅野は思わず吹き出した。
「先生、鼻、真っ赤ですよ」
くすくすと笑いながら、彼を見る。
「格好つけといて、やっぱり寒かったんですね」
茅野は羽織っていたスーツを脱ぎ、桝村に返した。
格好つかないね、本当。呟きながら、立ち上がった桝村はスーツに袖を通す。
はじめてまっすぐに、彼を見た。
逆光に照らされたシルエットは、大人の男のひとのもので。
急に。
心臓が騒ぎ出した。
締め付けられるように、うまく呼吸ができなくなる。
「でも、日下が笑ったところ、はじめて見たな」
「そんなに私、いつも暗い顔してます?」
声が少し上ずっていつもより更に高くなっていることに気付いて、顔が熱くなる。
「そんなこともないけどね。やっぱり笑顔が一番だと思うから」
穏やかに響く低い声が、こんなにも心地よく思えたことはない。
彼が担任になって半年弱。こんな感情を抱いたことはなかったのに。
茅野は顔を上げることができなかった。
多分、桝村の鼻よりも真っ赤に色づいていることは、間違いないだろうから。
「さて、と。明日から、文化祭に向けてラストスパートと行きますか、B紙さん?」
差し伸べられた大きな掌を、茅野はきゅっと握り返す。
「はい」
カナカナと鳴いていたヒグラシの声が徐々に小さくなっていって。
夜が近づいていることを教えていた。
★
「ようするに、……オレはA紙であろうとするだけじゃ駄目なんだな? 生徒に教えるだけじゃなくて、学びとろうとしなくちゃならない。そういうことなんだな?」
凛の瞳に生気が宿るのを見て、茅野はもう大丈夫だなと思った。
「さあ、どうだろ。あらら、もうこんな時間。凛、次の4時限目、授業入ってるんでしょう?」
背筋を伸ばし、凛は腰掛けていたベッドから腰を上げる。
胃を抑えていた手は、今はもう必要ないようだ。
「だけどさ」
不意に、凛は茅野を振り返る。
「なあに?」
「どうしてそんな話、知ってるんだ?」
一拍の沈黙の後。
茅野は窓の外の青々と茂った初夏の葉に目を向ける。
力を漲らせた、瑞々しい生命の力に。
「さあ?」
凛には聞こえるか聞こえないか微妙なテンションの声で囁いた。
「忘れたわ」
Copyright (c) 2004 Sumika Torino All rights reserved.